RE:あらかじめ失われた日記

珈琲や紅茶が好きなおっさんです。でも別に銘柄にはこだわりません、日東紅茶とネスレのポーションで十分。

業病と呼ぶ習慣について

石原慎太郎がALSの患者を業病とツイッタ投稿で表現して叩かれていたのを見て、当たり前だな、と思った。

昔、栗本薫グイン・サーガで「癩伯病」というハンセン氏病らしきものを業病と表現して叩かれたのだ。あの当時でさえどうなのって、いうことだったのに、現在で業病といえばそれは叩かれて当然だ。

そのせいで石原慎太郎は発言を撤回せざるを得なくなった。

https://mainichi.jp/articles/20200731/k00/00m/040/189000c

 

何しろ業病というのは根が深い。本人に罪はないのに、前世だの先祖だの、思いもしないところが悪いとされてしまうのだ。病によって辛い人生を歩まざるを得ない人たちが、いったい何の因果でそんな呼ばれ方で差別されなくてはならないのか。

そう、それは因果なのだという思想がまずいのだ。

仏教思想に有る因果という観点が、そうした言葉を生み出している。その概念自体は悪くはない。信仰する上での教えとして、有るのならば受け入れることが出来るだろう。

だが、それを何の罪もない人に押し被せるのは間違いだ。自らを業病、とみなせる人だけが、その言葉を使うことが出来るのだ。つまり、自分自身を業病と呼べる人だげが、唯一業病と呼ぶことが許されるのだ。

だが、自らを業病の徒、と呼べる人がいるだろうか?

それだけが気になるところでは有る。