RE:あらかじめ失われた日記

珈琲や紅茶が好きなおっさんです。でも別に銘柄にはこだわりません、日東紅茶とネスレのポーションで十分。

ゾンビ映画の事を考える時、「ぼくらの世界にサヨナラを」と言うフレーズが聞こえる

先日からロードショーされているザック・スナイダー監督の「ドーン・オブ・ザ・デッド」がずいぶんヒットしている。リメイク候補の作品が尽きたわけでもあるまいに、あのジョージ・A・ロメロ監督の「ゾンビ」をリメイクしたというのだからちょっとした驚きだ。
 
ホラー映画の中には死体が甦っては生者を襲う、いわゆるゾンビものという気色の悪いジャンルがある。こういう映画は結構古くからあるのだが、ホラーファンだけでなく一般の人からも注目を集めだしたのはロメロが撮った1978年公開の同名作品が世界的ヒットを飛ばしてからだ。その内容があまりにも衝撃的で観客にウケたためか、ロメロ以降のゾンビ映画は死者の跋扈による世界の破滅の一過程というスタンスでストーリー展開するパターンが定番になってしまった。
昔から私はこのゾンビものというのが大好きで、若い頃にはオールナイト三本立てのような上映会を良く回っていた。ビデオの収集癖もこうしたホラー映画ばかりを集めていた。あまりおおっぴらに言えない頃のお話。
ちなみに「ゾンビ」というのは日本公開タイトル。どんなかと言うとこんな映画。


ビデオパッケージにも使われたエレベータの扉が開き、ゾンビが雪崩れこんで来るシーンはとっても怖くて、今も強く印象に残っている。こちらのリンク、コワイのダメな人は注意。
まあ、この辺は大好きなジャンルなので書き出すといくらでも筆が進むのだが、今回は関係ないので割愛。

先述の「ドーン・オブ・ザ・デッド」もいろいろとストーリィにアイディアは投入されているのだが、なぜそれが起きるのか説明されないままに死者が甦り、その結果起きる社会の崩壊と登場人物たちの絶望的な人間模様が描かれるパターンは同じだ。
ロメロの「ゾンビ」は社会や文明に対しての風刺を描き出してみせる手法として、非常にショッキングでありその後の様々な作品にに大きな影響を与えた。そしてロメロ以降のゾンビ映画はその手法の踏襲によりホラーと言うよりパニック物として成功した。それはあながち間違いじゃないのかも知れない。サバイバルに成功しなくては死者の甦った世界で生き延びる事は出来ないのだから。
登場人物たちはあらゆる作品で安逸な世界から唐突に突き放され、この世が地獄と化した事を知っても、まだ生き延びるために逃げ回る。だがこうした映画では主人公といえどその牙から逃れる事はまれだ。少しでも噛まれたならゾンビになる事は逃れられない。
そうしてついに選択する道が二つしかないと知り、震えながら死を選ぶ人々が登場する時、私は胸苦しいような気持ちになる。それは虚しさと言ったら良いのだろうか。
その気持ちをあきらめと呼ぶ事は簡単だが、それで括る事はなかなかむつかしい。

リメイク版の「ドーン・オブ・ザ・デッド」では終盤死者たちに追い詰められ、主人公が船で逃げようとする時噛まれた仲間を置いていけずに苦悩するシーンで、噛まれた男は慰めるように言う。
「さあ行け。俺はここで朝日でも見てるよ」
そして桟橋に立った彼は船出する主人公に向けて手を振る。桟橋と船の上と、居場所を失った人々は互いに向かって手を振り、見つめあうしかできない。
一番思い出深いのは、ダン・オバノン「リターン・オブ・ザ・リビングデッド」だ。
医療機器会社に勤める主人公の先輩が毒ガスを吸い込み、物語中盤で生きながら死者になった事を知ってしまうシーンは選択の余地のない、恐ろしいものだ。
死者に変じた恐怖に涙しながら神に最後の祈りをささげ、彼は結婚指輪を外して別れのキスをする。
ここから去りたくない、死にたくない。けれどゾンビになりたくない。ゆがんだ表情のまま指輪をフックにかけると彼は自ら火葬炉へ入り、火をつけるのだ。もちろんどちらもエンターテインメントだから、その状況も描写も大仰に描かれている。
しかしそれは観るものに深く問いかけ続ける。現実に起きるとしたらあなたはどうするのか、と。
ある時中野であったオールナイト上映を観た帰り、蛍光灯が明るく照らす始発電車の中で、興奮を書き残そうと手帳に作品の感想を記していた。ふと気づき見回すと自分しか車内にはいなかった。私は急に恐ろしいような不安な気持ちに襲われて、窓を見た。外には暗い雲のすきまからゆっくりと動く翳った朝日が見えていた。その風景は映画館で観た「さよならの後の世界」のような気がして、私はじっと朝日を見ていた。