RE:あらかじめ失われた日記

珈琲や紅茶が好きなおっさんです。でも別に銘柄にはこだわりません、日東紅茶とネスレのポーションで十分。

いつかの夏もこうだった

昔から梅雨の頃が一番憂鬱な季節だ。
辟易する、と言ったら少しは言い表せるものか。
人一倍汗かきなので真冬ですらしたたるほど汗をかくのだが、それでも湿気がわだかまらない季節ならどうにかやり過ごすことができる。
我慢ならないのが熱気と湿気が空気にこもる梅雨どきだ。四六時中汗が噴き出してべたべたとかわくことがない。この時期はどうしても思い出す事がある。


昔、まだ若かった頃に仕事の研修で大阪に行った。
当時はNECに勤めていた友人にさんざん無理を言って都合を付けてもらい、中古だが素晴らしいパソコンを手に入れて有頂天で使い始めた頃だった。まだパソコンでの通信自体が珍しく、私も初めてのネットワークコミュニケーションが楽しくてたまらなかった。PC9801にようやくノートパソコンがラインナップされ、パソコンを持って歩くのが夢ではなくなった頃の話だ。

型名は確か、PC9801XLと言っただろうか。八階調のSTN高精細モノクロで表示できる10インチほどの液晶画面を起こすとタイピングの感触が良いフルピッチキーボードが現れる。本体後部に40MB大容量ハードディスクを搭載、デスクトップ型と同じMS−DOSが使用できるためソフト互換が可能。フロッピーディスクドライブ、各種インターフェースを搭載し、様々なものが接続可能だった。
しかしもっとも私が気に入っていたのは、これがラップトップ型と呼ばれる持ち運びが「一応」可能なパソコンというところだ。当時のノートパソコンからしても数倍の大きさだが、名前の通り膝の上に乗ると言うのが私の心をくすぐった。
しかしそれはかなりの我慢を必要とする物だった。本体は今考えればちょっと高級なワープロのような形状だった。ようやく持ち運びが出来る程度の重さでは、頑丈な引き込み式のハンドルが付いていても運ぶのはほとんど部屋の中に限られた。分厚い本体はともすれば膝をはみ出さんばかりに大きく、重さと相まってラップトップで作業するのはほぼ無理と思われた。しかもノートパソコンと違いバッテリは確か付いていなかったので、電源のあるところでしか使えなかったと記憶している。

私は悩んだ。
研修に向かうことは構わないが、パソコン通信が出来ないのはつらい。すでにパソコン通信にハマっていた私は毎晩さまざまな地方で開局し始めていた通信ホスト、いわゆる”草の根BBS”への接続に費やす時間が増え続けていた。
大阪から通信するのは関東に行きつけのパソコン通信ホスト局が多い自分としては、通信費がかかってしまうため痛い出費である。だが遠距離通信なら北海道や阪神圏のホストとも行っていたからそれほど重要視しなくてもかまわない。
今考えると、まだNTTの料金サービスにテレホーダイの影もカタチもなかった頃とは言え、なんとオソロシイ思考である事か。

問題はパソコンを持ち込んで通信する事だった。と言っても研修所側から規制されたわけではない。このラップトップを持ち運んで大丈夫か、それだけが心配だった。
取り敢えず手持ちで一番大型のスポーツバッグにクッション材を仕込んでパソコンを入れてみると、どうにか運べそうな感じがした。クッション材のせいでパンパンに膨らんだバッグは、どこから見てもかっこ悪いが、私はそんな事に頓着せずスーツを着込んで日用品もろもろを入れたカバン、そしてこの膨らんだバッグを肩に担ぎ新幹線を目指した。
ちょうどこの時期にそんな重労働をしたためにYシャツは瞬く間に湿り、脇から汗が滴った。運悪く名古屋辺りまで座れなかった私は、気づくとスーツの背まで汗だくになっていた。

ようやく大阪にある研修所に着いた時には、疲労困憊の極という態だった。しかも関東から離れる事さえ稀だった私はその地名を「はなてん」と読ませる事など知らず、疲れて回らない頭で「ホウシュツってどこから行くんですか?」と新大阪駅の駅員に尋ねて大恥をかいた。

遅くなって研修所に着き、まず一息ついた私はいつものように毎夜の日課を始める事にした。その研修所にはまだ珍しかったISDN電話機、通称”グレ電”が数台設置されていた。これを使って通信をした事がまだない私は、少し興奮してパソコンを起動した。”グレ電”に電話線のモジュラージャックを接続し、カバンの中のモデムを探した。
意気揚々とカバンの中を探ったが、友人から譲ってもらった1200bps、当時はボーレート表示のモデムはどこにもなかった。

ようやく忘れてきた事に気づくと、私はしばらく呆然としていた。
一週間の研修の間、私は結局張り切って運んだパソコンで所在なくシムシティをやり続けた。帰って久しぶりにネットへ行ってみると、パソコン通信の仲間たちから行方不明と思われていた事を知ったのだった。