amazon:動物化する世界の中で-全共闘以後の日本、ポストモダン以降の批評-
”妥協のない意見交換を通じて、「動物の時代」という新しい現実に対応する言葉を模索した、知的実践の書。 ”
出版元の集英社新書、既刊情報に書かれていたキャプションがこれだ。
なんだか読んでため息が出た。なんだこりゃあ。
本を選ぶ時、お金払って損したなってあまり思う事がないのだが、それはあまり読む本に対して過剰な期待をいだかないからなのだけれど、この本はひさびさにそんな感想を思わせた。
集英社新書ホームページ上で公開された書簡を交し合ったものをまとめたという本だ。ネットの方は見たことがないので知らなかった。
読んでみた読後感はなんだか噛みあわない事を噛み合わないままに話しているなあという感じ。
妥協もないが着地点もないじゃないか。
どうも東さんは自分の土俵に上がってくれないと笠井さんに言っているが、批評家って同じ見解を持たないと話が始まらないのだろうか?
しかも書簡であるのに「読者を想定する」と言うところでなんか違わないか? と疑念が起こる。書簡であるなら最初に想定するべき読者は相手であるはずなのに、なぜ外部に向かって読むべき相手を求めるのかが、良く判らない。
笠井さんが後の方で書くものは個人的なものという発言している事にも、引っ掛かりがあるようだ。ただ、これは判らないではない。
後に出版する予定があるものなら、個人間から外への問題提起は重要だろう。
けれど二人が語っていることは批評ではない。この本の中ではそこに到達もしていない。
何を話しますか、と決めかねている段階の物を買わされた、としか言いようがない。
なおかつ打ち合わせをしてから書簡を出しているのなら、そう言うところも潰しておけよと思うのだが。しかも書簡集の体裁を取るのだからそうした内輪を開陳してしまうのは、いかがなものなんだろう。
東さんがタームの意味、用法が違うよって拘るのは判るんだけどそれが議論を重ねる上で重要なことになっていない。「同じ事」を「違う言葉」で語らないようにするのがまずタームの第一義ではないのだろうか?
「世界をより良い方向へ向ける」との言には笠井さん同様ちょっとシラケ気味な感を覚えた。それが実現可能か否かと言う事はまた別の話だが、それを口にすると言う事がそうした感情を引き起こす。これは私が65年生まれだからだろうか。