RE:あらかじめ失われた日記

珈琲や紅茶が好きなおっさんです。でも別に銘柄にはこだわりません、日東紅茶とネスレのポーションで十分。

ゲームという存在が、僕らを作った

古くは液晶ゲームで下地を作られた僕ら(に、当たるだろう70年代)がゲームの潮流に真っ向から飲み込まれたのはまさしく、歴史的事実だ。

ファミコン、そのアップデートマシンディスクシステムSEGAの誇る名機Mark III、そしてメガドライブNECの渾身の一撃PCエンジン。いかなるハードですら追撃できなかったスーパーCDROMROM。いつも身近にゲームがいた。

 

Mark IIIにはFM音源の素晴らしさを、ファミコンには何を知ればこんな事ができるかを、PCエンジンとCDROMの大容量には驚きの声が禁じ得なかった。

今から見ても、ゲームというデザイナーが僕らという塑像を作ったのだ。

今それを知らない世代が多くなった。

知るのだ。それを知って読み取るのだ。

その只中にいて、潮流に翻弄されていない世代だけが、正しくそれを読み取れるだろう。

 

私は、今あの狂乱にも近い歴史を見ると、それはすごいことだったのだな、と感得する。そして、未だにあのブーム以上のゲームシーンは見たことがなく、なぜなのかと自問する。

答えは簡単だ。安定してしまったからだ。

ゲームシーンを揺るがすようなハード攻勢、怒涛のようなゲーム発売、それらを買い漁る人々。

もうこれらを見ることは少ないだろう。ネットで注文でき、プラットフォームの違いを忘れてネットを介して遊べ、一人でも大勢の仲間がいる。

そう、過去のゲーム機には、ないものばかりだ。

でも私は忘れない。

家族と、友人と、時を忘れて熱中したあのときのことを。

 

私の母は、ザナックが好きだった。

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