RE:あらかじめ失われた日記

珈琲や紅茶が好きなおっさんです。でも別に銘柄にはこだわりません、日東紅茶とネスレのポーションで十分。

広東麺が好きだ

頚椎手術して、何とかリハビリについていけるようになった頃から、ある中華料理店の広東麺が食べたくて仕方なかった。

中華料理チェーンのトウシュウ(オリジン弁当系列)の広東麺が食べたくて、仕方なかったのだ。

入院しているから、病人食しか食べられないから、だからなのだろうと思っていたが、私は内臓系の病気ではないから、実は常食であったのだ。

なので、何故そんなに食べたかったのかは理由がはっきりしない。現に退院してリハビリに通うようになった今でも、帰り道にこの店の前を通ると(というか通らないとタクシーロータリーに行けない)食べたくて仕方なかった。

夕食は用意してあるのだから、食べずに帰ろう…と思っても、欲求に負けて食べてしまうのである。きっと何か依存になるようなものなのだろう、と思う。(思うだけですよ)

広東麺、餃子一皿、お腹が空いている時にはご飯を付ける。もう主食のオンパレードだ。これでダイエットしないと…と、悩んでいるのだから噴飯ものである。

今度行く時には、広東麺だけにしよう。

約二年経ったので、闘病生活のことを書く(その七)

前回書き落とした事に、首のカラーの事があります。

このカラー、身動きできるようになってからも、しばらくはつけたままだった。言ってみれば日常生活に、カラーが入り込んだだけ。医者からの説明は特になかったので自分の想像なのだけど、これは言ってみれば緩衝器なのだ。だいたいこんな感じ、という事で参考用に画像をおいておきます。ただし私は画像ほどゴツくありません。

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傷は治癒しても、後遺症はかならずある。だから、大事を取って急な動きをしないために、こういうカラーをしておくということだったようです。

そんなこんなで車椅子があれば、病院内なら適当にどこでもいけるようにはなりました。急な尿意にもベッドサイドを利用して車椅子に飛び乗り、間に合わせる事も出来ました。

そして、歩行訓練も。

これが、本当に辛かった。自宅に戻ったら車椅子では生活できない、歩くしかない、と思い悩んでリハビリに励みましたが、つらいものはつらい。そしてつらいのが鬱です。

前章でも少し書きましたが、ほんと鬱になる時って、いつの間にかそういう気分になっちゃってるんですね。漫画を読んでクスクス笑っていたと思ったら、何故かしらねど全てを放棄して死にたくなるんです。もちろん処方された薬を適切に服用すれば、そういうのは抑えられます。でも死ぬことに憧れを抱く事は、なくならないのです。

いわゆる希死念慮ってやつですね。これは今でもしつこく残っています。困ったものです。

歩行訓練の話に戻りますが、判る方には判ると思いますが私は理学療法士作業療法士の方々に、お世話になりました。筋トレや杖を使った歩行の仕方、またベッドを使った移動や作業具を使った訓練、いろいろありますがどれもはじめの頃は、出来るのかな、俺は出来るのか、と心配で頭がいっぱいでした。

でもやってみると、なんとかなるものですね。麓から山頂を見ると遠いけど、登ってしまえばその山は登れる山だった、と気づくのに似ている気分でした。閑話休題

作業療法士の方は女性だったんですが、初めて作業療法室に来た時、マジでっ!?と叫んでしまい(どれも出来そうになく見えたので)微笑われたことを思い出します。この方や理学療法士の方には、自宅で生活出来るようになりたいので、スパルタでお願いします、と言ったんですけど。マジでスパルタ指導で泣きましたw

リハビリが終わり自分のベッドに戻ってから、疲れて寝てしまう事もままありました。退院前日までリハビリしたのも良い思い出です。

まあ、リハビリ自体は転院という形で別の病院で現在もやっているわけですが。脊柱管を手術して神経を触ったために起きた、運動障害を代替できるリハビリの事は、すでにやっているので、経過観察兼確認のためのリハビリしかやりようがないと宣告されてました。入院中も後半は筋トレ、マッサージは時間をあまり割かず、作業療法と歩行訓練が主でした。雪降った日も歩行訓練ですよ。驚きました、と言ったら「ちょっと間違えましたね」って言われて。何だよ怖いなこのスロープ、とか独り言を言いながら歩いてました。

リハビリに終わりなし、という言葉があるかどうかは知らないけれど、ほんとにこれで終わるのかな、心配になるような感じです。日常生活がリハビリだ、という言葉も頂いたので、念頭に置いて生活しています。

 

次回は一応最終回…?いやまだだ、まだ終わらんよ!

風邪をひきました

もうちょっとしたら回復するから!超回復するから!(それは筋肉)

あー支払いがめんどくさい。いちいちコンビニに行くのが、だるい。

といってもこの状態ではとても外出などできそうもない。

浜離宮恩賜庭園で何やらイベントがあるらしいのだが、行けない。もう時間もないし。

御朱印いただきたかったな…

 

約二年経ったので、闘病生活のことを書く(その六)

さて、大部屋に下りたはいいが、いろいろと雑事あり、リハビリに専念することが最初は大変だった。

まずケアマネージャーとの面談、地域の福祉協議会の方、PTの方たちを交えてのリハビリから退院までのスケジュール作成などである。

私の意見なども聞かれるが別に意見はないので、決めていただく。大体退院まで4~5ヶ月を見据えての会議となった。

 

ある時、病院内の車椅子が使える場所なら、ほぼどこでも行けるようになったので、いろいろとうろちょろしていたら、のどが渇いた。

アイスコーヒーを飲むかと選んでいたら看護師の人に「コーヒーやお茶は水分に含めません。水飲んでくださいね」と、やられた。仕方がないのでコーヒーは水の合間に一口二口飲むにとどめた。そして水は買うのがもったいないので洗面台で汲み置きしたものを飲んでいた。だってさ、水ごときに金払うの、もったいなくね?

 

食堂兼大フロアになっているところの一角に、漫画や小説の無料貸出があり、ここでは辛い時間も、やり過ごすことが出来て嬉しかった。まあ、食事は大食堂で摂るのが心理的に辛かったので、自室(カーテンで仕切られただけ)で食べるのだが。

なんで人と話していると、辛くなるのか自分でもわからないが、大部屋に入ったら睡眠薬飲んでいるのに眠れなくて朝を迎えることがよくあった。これが辛い。ほんとに眠れない時ってろくでもない事しか考えない。そして目が冴えるわけですよ。

そうこうしていると朝食の時間になり、完徹でリハビリに行くこともままあった。PTの人たちは優しいのだが、寝られなかったの?大変だね、とそっけなく容赦がないのでした。泣きながら歩行訓練しました。

まあ、このへんは次で書こうと思います。

 

そしてお風呂。手術から何日目だろう。11月の半ばくらいだったかな。

それまでは清拭してもらうだけで結構辛かったのだが、お風呂に入れますね、という医者の診断で、喜びながらお風呂入っていた記憶があります。

着ているものを脱ぐのがまず一苦労なのだけど、脱ぐにしろ着るにしろ、自分でできないと誰も手伝ってくれない、という設定のもと本当に一所懸命にやりました。

しかしなんだね。女性看護師の人しかいないのに、恥ずかしいという念は吹き飛びますね、入院中ってのは。ああいうカテゴリの(ナースとか)AVで興奮できるのは、本当にそれが好きか、RPGのように物語に没入出来る人だけだね。

まあそれはそれとして。

車椅子のままお風呂場に入り、二、三歩をよろよろしながら歩きでも、捕まるところがあるというのは良いものですね。お風呂安全。

手が届かない背中を除いて、体や頭を洗えるというのは良いものだな、と思いました。

そんな時にもグワーッて辛くなって元気なのに「お風呂は入れません・・・」と謝る事数回。人に会いたくないのだ…しかしリハビリのPTさんはそんな事知ったこっちゃねえので、無理やり連れて行かれます。五回に一回位の確率で、午前のリハビリで疲れた身体に、お風呂最後だから入っちゃう?って聞かれて、まあこれも拒否権はないのだけれど、入ってました。

お風呂中もカラー外せないので、濡れても平気なお風呂用カラーにつけかえて入浴。傷口もできるだけ触れないようにしてました。週に2回しかないからか、お風呂桶でお湯に浸かるのは、とても嬉しいものでした。

 

温泉とか入りたいけど、今は無理かなあ。行けそうかも、って考えるのは回復したって事なんだろうな。

 

次回はリハビリのことを書きます。きっと修飾語が多くなる予感。

人間は消化管の周囲に機能を配置されただけの存在である。

というような事を、いつも考えている。

例えばご飯食べていると、ああ、これがいくら噛み砕いても、これだけのものが食道を通り、胃腸を流れ落ち、溜まったり流動したりして、排泄されるのだな。

そんな事を考える。

まず胃にそれだけの物が入るのが不思議なんだよ。そんなに入るの?と自問自答してしまう。入っちゃうんだけどね。

不思議不思議。

Bluetoothに口づけを

Bluetoothの呪術的接続と無線スピーカーの恐ろしい関係

https://blog.hatena.ne.jp/banri_takahiro/banri-takahiro.hatenablog.com/edit?entry=10257846132657405486

 

というエントリを先日書いた。

呪術的な事は内心にとどめ置くとして、あれからBluetoothのトランスミッター側とかレシーバ側スイッチを確率論的に入れたり切ったりしながら試した。

ボタンはトランスミッターに2個レシーバ側に2個ある。しかもレシーバ側が混線してる。気づけば使っているセンタースピーカも、サブ機に運用してるスピーカもBluetoothレシーバが使われている。そんな事もわからないほど消耗していたのだ。

 

これは手強い。

 

だが、いくつか試している間に、いらないスピーカを電源断して置くことで少しは問題が整理できた。そしてスイッチの確認である。メモ紙にA-B、A-C、B-Aなどと組み合わせを記述しながら、試していく。さらにLEDに合わせて長押ししないとだめとか、トランスミッタとレシーバがスライドスイッチで切り替わる(しかも電源断して

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おかないと切り替えちゃだめ)とか、いらないギミックがいっぱいあって紙がみるみるメモで埋まる。それにダメとか言われてもなあ…

 

まあ苦労のかいあってつながったんですが、高いところにリアスピーカ設置したので、

いちいち脚立に乗ったり降りたりという繰り返しが、地味に辛かったです。

5.1チャネル環境が再構築できたので、まあよし!

大きな音で聞けないのはちょっと寂しいけど。

ゲームという存在が、僕らを作った

古くは液晶ゲームで下地を作られた僕ら(に、当たるだろう70年代)がゲームの潮流に真っ向から飲み込まれたのはまさしく、歴史的事実だ。

ファミコン、そのアップデートマシンディスクシステムSEGAの誇る名機Mark III、そしてメガドライブNECの渾身の一撃PCエンジン。いかなるハードですら追撃できなかったスーパーCDROMROM。いつも身近にゲームがいた。

 

Mark IIIにはFM音源の素晴らしさを、ファミコンには何を知ればこんな事ができるかを、PCエンジンとCDROMの大容量には驚きの声が禁じ得なかった。

今から見ても、ゲームというデザイナーが僕らという塑像を作ったのだ。

今それを知らない世代が多くなった。

知るのだ。それを知って読み取るのだ。

その只中にいて、潮流に翻弄されていない世代だけが、正しくそれを読み取れるだろう。

 

私は、今あの狂乱にも近い歴史を見ると、それはすごいことだったのだな、と感得する。そして、未だにあのブーム以上のゲームシーンは見たことがなく、なぜなのかと自問する。

答えは簡単だ。安定してしまったからだ。

ゲームシーンを揺るがすようなハード攻勢、怒涛のようなゲーム発売、それらを買い漁る人々。

もうこれらを見ることは少ないだろう。ネットで注文でき、プラットフォームの違いを忘れてネットを介して遊べ、一人でも大勢の仲間がいる。

そう、過去のゲーム機には、ないものばかりだ。

でも私は忘れない。

家族と、友人と、時を忘れて熱中したあのときのことを。

 

私の母は、ザナックが好きだった。

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