RE:あらかじめ失われた日記

珈琲や紅茶が好きなおっさんです。でも別に銘柄にはこだわりません、日東紅茶とネスレのポーションで十分。

仄暗い記憶の底より

なんか、やっぱりこの年までなんやかんややってると、自然と記憶しているものが少しレアだったり、他の人が知らないこともおぼえていたりする。

 

1.

昔、10歳とかその頃だったと思うのだが、父親が何かの用で実家に帰る事があり、それについて行くことになった。父親は九州の山奥、人吉の産でそこまで列車を乗り継いで行くことになったのだ。

なぜ私だけがついていくことになったのか、弟や母親が留守を守る事になったのかはわからない。昔の事なので父親も曖昧な返事でごまかしていたのだが、今思うに孫の顔を見せてその裏で金の無心に行ったのではないか、と思う。あの当時でもかなり貧乏していたので、まず間違いないだろう。とはいえ、今更親に聞いてみるのもちょっとはばかられるので、聞いたことはない。

途中新幹線は乗らなかった記憶があるので、きっと特急に乗ったりしている断片的な記憶はあるのだが、おぼろげに覚えているのは上野の不忍口から駅に入る時にアメ横を、ずーっと歩いて行った気がするのだ。何故かと言うとすごい込み方の繁華街を歩くことも初めて、旅行も初めてで、興奮していたのだろう。

読者諸兄姉も御存知の通り、アメ横と言えば食料品店から服屋から、それこそいろいろな店があるのだが、その途中で帰省者のための土産物屋が並んでいる区画が有った。

普段はかぶらないような帽子が並んでいたり、上野の桜をかたどった菓子折りを並べている様な店の中で、一番目を引いたのが子供向けのソフビ人形や玩具を並べている店だった。

その年にはもうアニメや特撮にのめり込んでいたので、並んでいる怪獣人形がいわゆるパチ物であることはすぐわかった。いらいらした父親が時間だと叱声をあげなければずっと見てみたかったのだが、じっくり見ることはできなかった。あの込み方を思い出すと、きっと年の瀬近くだったのだろうと思う。もっと見てみるべきだったのだろう、それさえあればほんの小さなことだが、思い出せる気がする。

残念なことである。

 

2.

今から30年以上むかし、未だコミケが晴海国際展示場で開催されていた頃。私は晴海での初開催に所属していたファンサークルで参加していた。初めてのコミケが一発で好きになったので、次の回からはスタッフ参加をするようになり、その当時でもけっこうなお兄さんキャラで楽しくスタッフをやっていた事が思い出される。

晴海時代、とまとめるには企業と競合して会場が取れずTRCだの幕張メッセだのと放浪していたわけだが、1981年のコミケは私に大きな衝撃を与えてくれたと思う。

あの当時のコミケカタログに載った新田真子さん(だったと思う)が描かれた漫画には、コミケ準備会が策謀して増え続ける参加者とサークルを削るために、日本各地を放浪するという見開きギャグ漫画が載っていたことが有った。沖縄で開催したり(これは後年実現した)北アルプス開場前に登頂してきたサークルや参加者が遭難するという自虐漫画で、これはマジで洒落にならん、とみんなで笑ったことを覚えている。

あの頃は吾妻ひでお先生もご健在で、ロリコンという語が一般的になり、ファンサークルがミャアちゃん官能写真集とか出し盛り上がってくる寸前だった。

ちょっと記憶が混乱しているのだが、モルテンクラブとかいろんな面妖本(確か蛭児神健さん提案のジャンル名称だったと思う)が出始める頃で、モルテンとちょっと接触の有った友人と、壁さーで売り子したことが思い出される。めちゃめちゃ売れるのでいくら新刊が有っても足りず、売上の会計は万札をゴミ袋でまとめないといけない、というギャグみたいな状況が有った。スペースはいくつかダミーで応募して、新刊をそれぞれのスペースで委託販売するという形を取りながら、各処で5000部とか1万部は頒布したのではないかと思う。一般が無作為に並んでしまい、近隣のサークルさんに迷惑だ、という事でサークルスタッフが並ばせたりシャッターオープンなんかで対応し始めたのもこの頃からだろう。

人気同人作家やプロ作家に謝礼を払って描いてもらうというのはこの頃から有ったと思う。現在では甲冑娘がそういう流れで頒布しているのではないか。このあたりは曖昧なので記憶違いかも知れない。だが、打ち上げに売り子含めてマジで50人くらい来て、作家はあの店売り子はこの店、スタッフはこっち、店からあぶれたらごめんね、みたいなことも有った。

当時コミケットセレクションというイラストエッセイや漫画を載せた本が準備会主導で何回か発刊され、結構入手難だったことを覚えている。スタッフやってると時間が空いたので買いに行くと、人気作品や限定本はすでにないということがよく有った。で、セレクションに有る方のイラストエッセイに描かれていた、イカ少年(年齢は不詳、成人はしている模様)というのが当時地味に有名で、歩いてるときにも「イカイカ…」とささやきながら歩き、目をつけたサークルさんに自作のイカのイラストを持ち込み絵を書いてくれと大枚はたいているということだったのだ。で、何故か忘れたがその人物と知り合いにになってしまい、その後えらい迷惑を被ることになったのは忘れられない。

表では晴海のスタッフバッジ、というのが記憶されている。赤、黒、黄とあって、赤は未だ初心者スタッフ、黒はけっこう経験してる、黄色は責任者というような分類だった。私は最初から黒バッジでその頃準備会に入れ込んでるサークルさん(名前失念)が持ち込んでくれたトランシーバで各所に連絡し、統率するという画期的なことも有った。私は遊撃隊に所属して問題が有ったところの、スタフでは対応できない事に当たるという役回りだった。

色々と断片的な事ばかり思い出すので、筋道だった記憶ではないのだが、こんなこともあったな、程度のことです。

思い出したら、また書くかも。