ノーマライズ、もしくはノーマライゼーションとはもともと介護などでうまれた言葉である。
この語には何の善悪もなく、1960年代のヨーロッパを中心に発展した社会福祉の理念であるという。
しかし社会が多様化するにつれて、善なる意味は薄れ、悪しき面が見え隠れし始めた。これを指して私は悪しきノーマライズと呼ぶ。
ノーマライズは、社会を指して言う時、均質化が行われる。介護では一様な介護を受けることの状態を示すが、社会的に均質化が行われると、それは多様化を糾弾するようになる。
これは政府や政治がそれを起こす、というわけではない。一般社会が、均質化を推し進めてしまうのだ。一様な均質は社会的不遇や貧困などを救う概念としては、大変に良いものだが、悪しき面を見せたノーマライズはそれを選ばない。
あいつは金を儲けている、こいつは社会的に恵まれている。それに比べ俺/私は不当にに社会から阻害されている、こんなふうに貧しいのは社会が悪いからだ。
まったく、この論理展開はマルクス・レーニン主義ではないか。
だからといってそれを主張しても迫害されないのは、社会が守っているからだとは、発言者は思わない。それは生まれたときからある権利なので、それを不当にふさがれることが共産主義的だとは思わないのだ。
中国を見れば一様なノーマライズが社会をどう歪めているか、ということがよくわかる。共産主義的ノーマライズが実現した時から、あの国は多様性を否定したことがよく分かる。
一面的正義は社会悪に通じる、というのがわからないことではないだろう。むしろそれを推進している、と言うことかもしれない。
だがこの考察にしろ、一面的なところを切り取って書いているわけで、すべての面で事実を見て書いているわけではない。
しかしそれでもアメリカも一面的正義に固執しているし、どの国でもすがった正義を疑うことはない。
その中で突出的に見えるのが、ノーマライズなのではないかと思う。
社会的均質化、問題を精査せず行われる一様なノーマライズは、社会悪である。