RE:あらかじめ失われた日記

珈琲や紅茶が好きなおっさんです。でも別に銘柄にはこだわりません、日東紅茶とネスレのポーションで十分。

あだしごとはさておきつ

この場合のあだしごとは「他し事」と書く。
南総里見八犬伝で所々に使われた「他し事はさて置き。」というところだ。
が、私のブログの場合は徒労の徒し事と書いたほうが、賢明と言うものだろう。

いろいろ無駄な事意味のない事がある。それをしてから気づく事もあれば、気づいているのにしてしまう事もある。
一昨年になるけれど、青木が原樹海に行った。わざわざそんなところに行かなくても良かったのだが、好奇心には勝てない。
行った感想を、今ここで書いておくと自殺は人間の最大の無駄ではないかと思う。
まああんなところは行かないに限る。
間違えられると、けっこうやっかいだ。

無駄が一番人間らしいと言ったのは誰だったか。
無駄に生きるよりは、というダダイズムな考えもあるが、それでも止まってしまったものより前進していく人間の方が素晴らしい。
止まってしまったものは歴史にも残らず、いつか誰からも忘れられ、いた事すら失われてしまうから。止まってしまった人間は──それは”もの”だ。
自分の目前から失われた瞬間、その人は人ではなくなる。記憶というものになる。
おじいちゃんのことは口にしても、曽祖父の話など、よほどの家系でなくては口にも上らない。しかし、何でもいいのだ。神であろうが仏であろうが。残れるのならば。
そのようにして人の間に残り続けられるなら・・・何と呼ぼうと”それ”はかまいはしないだろう。
ほとんどの人は、記憶すらも失われる。覚えてもらう事もなく、5世代も過ぎればたいがいの人間は公的な記録すら見返される事はない。
総じてそうなるのだから、かまわないと言えば言えるかもしれない。

人は忘れる事で生きていく。記憶と化して残る人々は幸いである。

ウォーキング・ツアー
amazon.co.jpのカスタマーレビュー

Flashでの紹介
http://www.waraiseek.jp/flash/base/1140322432.php

キャラクターが腹立たしい。
以上のことはこのFlash見たときに考えた事どもだ。無駄である事を自覚するときに、ようやくこれだけまとまったのも意味がないと言えるか。

そろそろ記憶も混乱してきた。お酒飲んで書くのはもうやめよう。元々強くもないのだから。
徒し事はそろそろやめよう。