RE:あらかじめ失われた日記

珈琲や紅茶が好きなおっさんです。でも別に銘柄にはこだわりません、日東紅茶とネスレのポーションで十分。

死とは忘却なのか

以前から書いている通り(いや実は書いた気になっているだけなのかも知れないが)私は死を忘却と理解している。

死を悼み、いくら祈りを捧げたところで、死者はもうすでに他の世界へ旅立っている。だから彼らとは交流もできないし、思い出してやることだけが、精一杯だ。

そして少しずつ死者は記憶と変わっていく。死者として記憶に還元されれば、そこにはなにもない。思い出してやること、供養してやることしか出来ない。そしてそれらの行為は、最終的に自らを安堵させてやる事に過ぎず、死者は何も語らない。

私はそういう考えの時、忘れられた時、死者は新しく歩みだすのだろう、と思う。言ってみれば親しかった友人と別れ、今は何をしているのかもわからない、というような感じだろうか。

自分も死ねば結局そのサークルから離れることは出来ず、人が思い出す時にPOPするモンスターのようなものになるだろう。そして記憶が薄れたら、今にも帰ってきそうな気がする、と言われた時期も越え、私の死は確定する。

 

いくら好意を持っていても、死者を忘れないというのは、苦痛だ。生死どちらの側にいても、それは辛いものだろう。

もし私が死んだら、さよならを言って忘れて下さい。夢に出るかも知れませんが、それだけのことですから。別れの挨拶の後に、思い出すことは辛いことです。だから、私のことは忘れて下さい。

 

ん、まだ死ぬような局面じゃないけどね。生前葬って高いのかな?