そろそろ初夏の風を感じる日のことだった。私は彼女の家からはまっすぐ見えない路地から出て、彼女の家の壁に寄りかかりながら、彼女が出てくるのを待っていた。
以前はそうして家の前で待っていたものだから、彼女の年老いた母にあやうく見咎められそうになったのだ。
私と彼女の関係は、他人、況してや自分の親にはあまり好ましいものではない、と彼女に叱られたので、しかたなく路地で彼女が出てくるのを待つしかなくなったのだった。
それでも、彼女はその後に優しく、「あなたには罪はないのよ、ただ人に知られるのがいけないだけ」と髪をなでてくれたものだ。
だが、今日は家の前で堂々と待つことにした。少しでも彼女に早く会いたかったのだ。
彼女とのいろいろな事を思い出していると、壁の向こうでドアが開く音が聞こえた。
「早くに帰りますから、大丈夫よ。おやつは台所へ置いておきました」
彼女は少し癖のある、ゆっくりしたイントネーションでそういうとドアを閉め、道路に出てきた。左右を少し確かめると、私に気づかないふりをしてそっといつもの場所に向かって歩きはじめる。
私は彼女の姿を見ると我慢できず、小走りで彼女に追いついた。
私が並んで歩きだすと、彼女は初めて私に気付いたような顔をして、少しはにかんで笑った。どちらからともなくそっと手を握りあう。彼女の手は握りしめていたからだろうか、少し熱いくらいだった。
いつもの場所で、彼女は羽織っていた服を脱ぎ捨て、私に言った。
「今日は素敵なことがあったの!わたし、教室で褒められたのよ!」
嬉しげに語る彼女を見ていると、私までうれしくなる。よく話を聞かないまま、それでも彼女の顔から目を離せずに私は何度もうなずいた。
そうしているうち、彼女は笑いながら私の手を取り、踊り始めた。私も笑って少し遅れながら一生懸命ステップを踏む。二人で踊るうち、彼女は私に抱きついてきた。彼女の体から漂う芳しい太陽のような匂いを胸いっぱいに吸い込むと、もう私は我慢ができなかった。
「さあ、私が動くからあなたは後ろから押してちょうだいね。最初は優しくしてくれなきゃダメよ?」
そう言って柱から下がっているロープにつかまり、彼女はそっと私の前で動き始めた。ちょっとした緊張が彼女から感じられる。この体位は初めてするのか、私は彼女の背中に手を付き、ゆっくりと前後させた。段々と揺れは大きくなった。
しかし押す力がちょっと強かったのだろう、あっ、と小さな声を上げて彼女がロープを放した。乗っていた板が揺れ、彼女が地面に尻餅をつく。
乗っていた板が彼女にぶつかりそうになり、私は板を押さえようと手を出した。
だがそのせいで板は私の腹に当たり、肋骨に鋭い痛みを感じて私は地面に倒れた。
彼女が大丈夫かと叫ぶが立ち上がれない。痛みのために涙をにじませて、痛いよと訴えた。彼女は急いで立ち上がらせながら、調べてくれる。
さしあたって怪我などはしていないと分かると、彼女は済まなそうに私を見て、小さくごめんね、と言った。
「そろそろ帰らなきゃ」
夕映えがだんだん空を染めるのを見上げて、彼女がぽつんと言った。
「僕も帰らないと、お母さんに叱られる」
僕は寂しさを抑えて言った。本当はもっトアノコトイッショニイタイノニ…
さきちゃんは、公園の入り口で僕にさよなら、またあしたね、と別れを告げた。
手を振る僕を名残惜しそうに振り返りながら、さきちゃんは走っていった。
僕も空からあの子を見送ろうと、そっと飛び立った。
もう帰る家を失った幽霊には、それができる精一杯だった。
さよなら、さきちゃん。