RE:あらかじめ失われた日記

珈琲や紅茶が好きなおっさんです。でも別に銘柄にはこだわりません、日東紅茶とネスレのポーションで十分。

吉野・熊野・高野の名宝展


内外です…
生きています! まだ私は生きております…!!(小松左京復活の日」イタリア人哲学教授の台詞より)
まあどっちでもあんまり変わらない人生を送っております。
内外です。<ヒロシですのマネ


ある日曜の昼下がり。
世田谷区は用賀の「世田谷美術館」へ高野山名宝展を見に行く。
なんでも世界遺産登録記念ということで、吉野・熊野の名宝も展示されているという。
そのためというわけではないが今日は同行二人。つまりは一人で電車に乗って用賀まで。
途中の砧公園は秋の陽の木漏れ日がすばらしく、歩道を歩くだけで枯れ葉の匂いが渦を巻いている。
あまりの眺めの良さに携帯で写真を撮ったのだけれど、おバカな事にメール送信が出来ないサイズで撮影してしまった。ここでご紹介できず残念。
枯れ葉を踏みながら美術館へ向かう道々で、つい巡礼にご報謝、と口ずさんでしまったり。
嗚呼山田風太郎の影響大なるかな。


綺麗な会場の中は始まって間もない日曜だと言うのに、静かで混みあってもおらず、ゆっくりと見て回れる。
館内に入ってまず気がつくのが木造仏が放つ匂い。昔の家でよく嗅いだ、古びた木とかび臭さの中に香りが混じった懐かしい匂いが感じられる。

入り口に展示された金銅造の釈迦如来像は削いだような鼻筋が珍しい。
空海の幼少の姿を写した稚児大師木像は瞑想をする幽玄の眼差しが感じられる。
他にも聖徳太子立像などが展示されているのだが、別室のホールへ出るとその大きさ迫力についため息が漏れる。今回の展示でもっとも大きい蔵王権現立像が立っているのだ。

神仏習合の要である本地垂迹(ほんじすいじゃく)説、つまり神々は仏の別の側面であるという考え方から産まれた蔵王権現は、二、三メートル離れているのに見上げなくてはそのお顔が拝せない。
憤怒の形相もまなじりを見開いたその眼も素晴らしいのだが、その肉体表現がもっとも素晴らしい。なるほど本尊佛として秘匿され、ご開帳されれば四万六千日と言われるだけはあると納得。

さすがに展示品が宗教美術のためお年寄りが多いけれど、けっこう年の若い人、中にはカップルが展示品を眺めては頷きながら手を合わせる光景もあった。
熊野や紀伊ではこれらの仏や神がいまなお信仰の対象であり続けていることを実感した一瞬に、つい考えてしまった冗談も畏れ多いような気がしてしまった。

狛犬のダイナミックさや阿弥陀如来像の柔らかい曲線、のちの琳派に通じるという縁起絵巻に見入っていると気づかぬうちに2時間が過ぎた。


最後に見たNHKの3Dハイビジョン、飛び出す映像も素晴らしかったのだけれど。
すっかり暗くなった公園に出て歩きながら、あの仏たちが発する木の匂い、存在の意味を保存するには、いったいどれだけの膨大なデータ、意味の補完が必要になるんだろう、そんな事を思いながら枯れ葉の匂いを嗅いだ。