RE:あらかじめ失われた日記

珈琲や紅茶が好きなおっさんです。でも別に銘柄にはこだわりません、日東紅茶とネスレのポーションで十分。

ウォー・デイ/W・ストリーバー, J・W・クネトカ

amazon:ウォー・デイ

私は幼い頃、この世界は滅ぶのだと思っていた。
 自分が生まれる前から二つの「陣営」が反目しあう世界。双方が世界を十数回も灰燼に帰する事が出来るほど、恐ろしい兵器を持っている事実。世界を知り始めると、それは笑ってしまうほど空々しい事から成り立っていた。
 黒澤明の「生きものの記録」を見ても、そこに描かれた追い詰められたものの狂気は、悲しいけれど納得しか感じなかった。
 手遅れだとつぶやく声を聞くのだという幻想をいつも持っていたせいか、いつか核ミサイルが降る光景を見る事を当然のように思っていた。実を言えば私は、それを待ち望む癖がついていた。
 道を歩いている時、ふと青空を見上げて私は思う。あの飛行機雲が核ミサイルの軌跡なら。
 その数十秒後には視界を輝きが覆うだろう。そしてあまりの光にすぐ視力が失われる。熱波を感じた瞬間に蒸発するかもしれない。熱波が来なくても衝撃波がやって来て、自分は地面に叩きつけられる。
 運良く何もなかったとしてもすぐに高濃度放射能が体を蝕むだろう。そして私は死ぬ。
 世界はどうなるのだろうか。私はどうなるのだろうか。
 
 「ウォー・デイ」W・ストリーバー/J.W.クネトカ
 
 核戦争の恐怖、そしてその悲惨さを描いた作品で記憶に残っているものと言えばやはりナンバーワンは「渚にてネビル・シュートだろう。ちなみにラッセル・マルケイ版のTV映画は予想外に良かった。違うところは大幅に違っている(許せない人は絶対許せないたぐいだ)のだけれど、原作に忠実に作っている印象が受け取れる。現代に合わせた部分も浮いておらず、お勧めだ。
 そして陰鬱な出来の「海魔の深淵」デイヴィッド・メイス。1984年の作品だ。破壊され汚染された世界、それを作り出した非人間的な兵器を放棄も出来ずそれによって生き延びていく社会。ああ、これについても書きたかったのだった。
 こうした作品とは違う角度から「ウォー・デイ」はアプローチする。
 アメリカとソヴィエトは互いの不信が頂点に達して衛星から、ミサイルサイロから核ミサイルを撃ちあった。その結果アメリカだけで百数十メガトンの核ミサイルがニューヨーク、ワシントンその他で爆発する。世界は終焉を迎えなかったけれどアメリカは国家としての基盤を失い、無事な州が独立する事態となる。勝利者のいない戦争、そしてその後のアメリカで生きる人々をリポートしようと作者は試みるのだ。
 作者二人は小説の中でアメリカ横断の旅に出る。爆心地近くで、繁栄の回復したロス・アンジェルスでそして各地でさまざまな人々から話を聞いて回る。政府はなくなり人々は飢饉と疫病に悩まされ、諸外国からやって来た経済が生む貧富の差に苦しみながら“素晴らしいアメリカ”を懐かしみ、過去と失われた人々へ追憶を馳せる。
 そこで描かれるのは戻らぬ昨日への愛惜、過酷な今日を生きる力強さ、そして不安な明日だ。
 主人公は最後にようやく家族のもとに帰ってきて、妻と息子の寝顔を見ながら考える。
 失われた自由、将来への希望と平和、お互いを受け入れられず傷つけあった事、それを留められなかった苦悩。そして傷ついた世界、傷ついた人々がいやされる事を願う。
 終盤、主人公はニューヨークで暮らしていた街角と再会する。破壊された惨状の中に、決して還らない過去が眼前に広がった時主人公は惜別の涙を流す。
 この作品は厳密に言えばSFではない。ストーリイを考えても冗長だ。だが決して取り戻せないものを見たとき、私も同じ涙を流すだろうとと思わせるのだ。


--追加--
 
ストリーバーといえば「ザ・ハンガー」ですが。
SFが読みたい2004によると、新訳でまた出版されたらしいです。
 ちょっと読みたい。