RE:あらかじめ失われた日記

珈琲や紅茶が好きなおっさんです。でも別に銘柄にはこだわりません、日東紅茶とネスレのポーションで十分。

詩を読む男

夕方、会社帰りの少しざわめいた車内で。

ようやく座れた七人掛けには、余裕を持って座ろうとする人のせいか真ん中にちょっとした隙間があった。ちょうど私が座った横だ。立ち止まる人たちは残念げに眺めやるが、誰も座る気になれないのか皆、別の車両へ移って行く。
仕方がない、あまりにそこは狭くて、でも席の全員が少し体を寄せても一人分になるとは思えない。もちろん私が体を寄せても無理だ。
けれど、立ち止まる人がいるたび少し居心地が悪くて、私は下を向き本を広げた。

突然ぐっと膝を押されて、読み返していた大塚英志「おたくの精神史」から視線をあげると尻を突き出した男が私の横の隙間に、無理やり尻を入れようとしているのが見えた。
きつくネクタイを締めご丁寧にスーツの二つのボタンまで閉じ、坊主頭から汗をしたたらせた男は、すみませんとも言わずに尻や体をぐりぐりと動かして無理やり居場所を確保した。
両隣の乗客は男の肩口に塩の浮いた湿ったスーツを押しつけられ、特に肩から降ろしもしないショルダーバッグを顔に当てられた私は、むっとして男を睨み付けた。

しかしそんな他人の視線は頓着しないらしい男は、ショルダーバッグからハードカバーの本を取り出すと汗も拭かずに読み始めた。
手ずれた本屋の包装カバーがついたままの本を、食い入るように読んでいる。

そんなに前のめりになって読む本では、さぞやすごいんだろうなあ。何が書いてあるのかね。

少し意地悪い気分で覗いてみると、書かれたそれは詩のようだった。
余白の多いページには、みたところ普通の文章がセンテンス毎ほどに区切られて書かれている。少し読んでみたが詩などには暗いし、なんだか文章が目を引かない事もあって有名なのか無名の人かは、なんとも判らない。
しかし貧乏ゆすりまで始めた男の没頭ぶりに、よほど気に入ってるんだなと私はただあきれて思うだけだった。

しばらくして唸るような音が聞こえ始めた。気になって仕方がないが周りを見ても音の出所がよくわからない。オープンヘッドフォンからの音だろうと腹立たしく思っていると降りる駅が近づき、私は本をカバンに仕舞って席を立った。
即座に汗まみれの男がふうと息をついて、くつろぐように座り直す。その時、唇が動いているのが見えたような気がして私は振り返った。

男は本を抱えなおすと、じっとページに視線を据え、ぶつぶつと早口でつぶやき始めた。あのぶんぶんと言う音は、男がつぶやき声で読み上げ続ける詩だったのだとようやく私は気づいた。

私はホームに降りた後も、音読する男を見送っていた。