RE:あらかじめ失われた日記

珈琲や紅茶が好きなおっさんです。でも別に銘柄にはこだわりません、日東紅茶とネスレのポーションで十分。

あなたは信仰を得ることができるか。

二日前に、母が会いに来た。

いろいろと身近な事など話しを聞いた。実の母の話しでもあるし、親身に聞いた。母は愚痴がこぼしたいらしく、私にはそれしかできないのだから、よくよく聞いた。

そうしていろいろと話したあと、母はおそるおそるという感じで、先日置いていった日蓮真宗の新聞とビラを読んだか尋ねてきた。斜め読みだが読んだよ、と答えると一緒に信仰の勤行をしないか、と言ってくる。

やはりこう来たか、と私は思った。育て上げた子供たちから顧みられず、心理的に辛い思いをしている老齢の母を支えているのは、今は信仰の道なのだ。

だが、終身の道として神仏への信仰はない私には、それに答えるすべがない。段階を踏んで説明されても、理解はするが納得はしない。だから信仰というものが“わからない”。母は苦境を迎えても、信仰があったから神仏に救われた、という。だが、その事例を述べられても、それは仏の垂れたまう慈悲や功徳ではなく、単なるタイミングでしかない、と私は思う。

決定論的に言えば、もっとずっと前に母の行動があり、その行動のために導かれた何かしらの変化があったはずなのだ。母はそれを知ってか知らずか、認識していない。いや、神仏の加護だと信じているが。

考え方の立ち位置が違うのだし、申し訳ないがそもそも信仰を信じない私には、母の言葉が届かない。ただ泣きながら取りすがられるのは、勘弁してほしいなあ、と思うのだ。

そんな感じです。