RE:あらかじめ失われた日記

珈琲や紅茶が好きなおっさんです。でも別に銘柄にはこだわりません、日東紅茶とネスレのポーションで十分。

非決定論的運命論者

この世界では、私の想像し得るすべての事柄と、想像し得ない全ての事柄が混在している。

 

私は非決定論的運命論者である。

確率的決定論では、未来は確率によって支配されており、その演繹としてすべてが決定される、という。確率論的であるため、可能性が高いことが事実として表出するわけだ。

だが私は前文に書いたとおり、未来は混沌として決定されていない、と考える。選択できる幅は確率論的に無制限であるが、その上で選択肢として選ばれる因果律から演繹される幅が狭いため、運命論的な思考が可能と考える。

特段変わった思考ではないと思うが、それを理解してくれる人は少ない。どうでもいいことであるからかも知れない。

 

昨日母親が、いきなり新興宗教に入った、と言い関係者を連れてきた。もともとその日は母と会う約束をしていたのだが、そんな部外者を連れてくるとは思わなかった。名前を挙げれば、ああ、あれかと皆さんご存知かもしれないところである。

たまの親子の語り合いを想像していた私には寝耳に水。宗教は横から見ているぶんには面白いが、当事者になるのはゴメンだ。

そういう事を話したにもかかわらず、とってもいいからあなたもお入りなさい、ときた。冗談ではない。あなたが宗教に頼るから子供が迷惑する。巻き込まないでくれ、と言ったが聞き入れない。

面倒くさいので論破したらすっごく怒って帰っていった。

アホみたいである。

高齢になってから宗教にハマる、というのがわからない。なんでそんなものに頼らなければならないのか、杖として支えるのならまだわかる。全面的に頼るのがわからない。

信仰とはそうしたものではない、という事も聞いた。しかし無批判、無抵抗にそれを受け入れることはおかしいのではないか?信仰とは己を試すものではないのか?

 

なんだかむかっ腹が立って仕方がない。