RE:あらかじめ失われた日記

珈琲や紅茶が好きなおっさんです。でも別に銘柄にはこだわりません、日東紅茶とネスレのポーションで十分。

私は神を信じない

ずいぶんと昔の話だが、私の母親は創価学会に加盟していた。生活面などでも夫である私の父に困らされたり、金銭的に色々とつらい事も有ったようだし、本当に信心すれば助けられる、そう思っていたのかも知れない。自分の実家が神道の神主の家系なんだから、そっちを信じたらいいのに、と思わないでもないが、その当時は幼かったのでわからなかった。

 

ある日、創価の集まりがある、お前は連れていけないから静かにお留守番していなさい、そう言って母は出かけてしまった。私はというと、小学校に上がるか上がらないのかという頃だ。今思えばひどいことだと思うが、まあとにかく私に留守をさせて創価学会の集会に行ってしまったのだ。

しばらくして夕立が降り始めた。最初はそうでもなかったのに、少しづつ風雨は激しくなり、ついには家を揺らすほどの暴風雨となった。

経験したことのない風雨に、恐ろしくなった私は耐えきれず泣き叫んで玄関から助けを叫んだ。けれど誰も来てくれない。声さえ届かない。どんどんと激しさを増す雨に、このままでは死んでしまうと思った時、私は母に教わった題目が唐突に頭に浮かんだ。唱えればきっと偉い人が助けてくれる、そう教わって母と一緒に拝んだ題目を唱えたのだ。

すると突然雲は晴れ雨はやみ、雲間から西日が差してきた。私はその時信仰というものを知った気がした。

 

宗教的神秘体験とは恐ろしいもので、たかだか6歳ほどの子供の心に、題目を唱えることで私は助かる、と信じ込まされたのだ。それからは石が転げ落ちるようなもので、母親についていきたいと申し出て、集会のたびに熱心についていき、張り切って御本尊様に向かって拝み、朝夕の勤行もおこなった。周りの大人達からは褒められた事を覚えている。

だが、長じるにつれて私は、全ての事象を無批判には受け容れられないことをおぼえた。そして、自らの理性が無批判の信仰を否定することを知った。

あの神秘体験は信仰を肯定しない。何もかもが偶然に起きうることだと知ってから、私は信仰を持ち続けることはできなくなった。神仏は基本的に論理で物事を説明しないからだ。信仰というフィルターを通すことで、神仏のいる世界を信じるか否かが決まるのだ。

 

そのうち、母は信仰を捨てた。創価学会から脱会したのだ。何が原因かはわからない。ただもう信じない、と言ったときの打ちひしがれた表情をおぼえている。だから、それより前に信仰を懐疑的にしか見られず、それを捨てた私には母もようやく目が覚めたのか、と思ったことを覚えている。

しかし、全ての信仰が裏付けのあるものと思えなくなった私とはちがい、母は新興宗教に入りは辞め、を繰り返した。朝早起きをして掃除をさせられたり、聖書を読まされたり、うんざりする経験ばかりさせられたことが疎ましくてたまらなかったが、母にしてみれば、心を支えてくれる事が必要だったのだな、と今はわかる気がする。

 

そんなこんなで、私は神仏を信仰することをやめた。もちろん敬している事は間違いない。だが、信仰はしていない。

超能力ブームのころ、スプーン曲げが出来るならプロ野球の試合中に、衆人環視の中ボールを消してみせろ、それなら誰も疑念を抱かない、といったタレントがいたが(だいたいタレントだったかもわからないほど記憶があいまいだが)、それを肯定する超能力者はいなかったし、やってみせると言ったものもいなかった。

あらゆる神仏がいるなら、私の言葉に沈黙することはないだろう。

奇跡を、神威を、法力を現せ、そうすれば信じる。

だから、私は神を信じない。